(随分明けましたが) 新春 改めましておめでとうございます。
ジョイスのお友達は、どのような年末年始を過ごされたのでしょうか?
ニシ家は、クリスマスイブにご近所さんと一緒に夫の焼いた七面鳥を食べ、25日は教会へ行った後、広島へ行きました。
この三年間毎年、平和通りのライトアップを見に行っています。
広島を訪れるたびに、日系カナダ人三世の夫は、戦争について私の知らない、その時代をカナダで過ごした日本人の話をしてくれます。
夫は、父方から数えると三世代目、母方から数えると四世代目ですが、父親の方で数えるそうなので日系三世になるそうです。
Nishi家(父方)のカナダでの歴史は、夫の祖父が、福岡からカナダへ移住したとき、母方は、曾祖父が鳥取から移住したときから始まります。
夫が自己紹介などで自分がカナダ人だというと、カナダ人ぽくないねと言われることがあるそうです。カナダ人ぽいというのは、きっと白人系を想像していうのだろうか。一方で、夫の出身地バンクーバーに行くと、ほぼアジア系のカナダ人ばかりです。カナダは移民大国なので、彼らのほとんども皆、移民してきた人々です。
昔、日本から移住してきた人々は、漁師や缶詰工場、農業などをして生計を立てていました。しかし、時代が第二次世界大戦に入ると、日系人のうちにスパイがいるかもしれない、潜水艦で日本軍がやってきて日系人は戦争に加担するだろう…そんな噂が流れはじめ、監視という目的で、多くの日系人が収容所に送られました。
夫の家族も、土地や家、車、農園、船などの財産をカナダ政府に言われるまま全てを政府に預け、許された手荷物のスーツケース二つ分の荷物を持ち、強制収容所への移動を命じられました。
夫の父方の祖父Nishiは、いくつかあった収容所の中のレモンクリークという、山間部の収容所に移住しました。
雪の積もる過酷なその土地で、先に移動していたユダヤ系の人々が親切に助けてれたことを祖父は覚えているそうです。
夫の現在の父親も、他の収容所で子ども時代を過ごしました。そこでの生活は寒く、狭く、貧しいものでしたが、野球チームや教会などもあったそうです。
終戦後、数年してから日系人は解放されましたが、政府に約束されていた戻してもらえるはずの財産はすべて政府により売られてしまっており、返却されることはありませんでした。
今から29年前(1988年)にカナダ政府は日系カナダ人への当時の不当行為を謝罪して対象者に200万円ほどの賠償金を支払いましたが、夫の両親と親戚は、皆その対象になりました。
そのニュースが流れたとき、当時、中学生くらいだった夫に「お金なんて、もういいんだ。ただ、何より謝罪が欲しかったんだ」と祖父が言ったのをとても印象に残っているそうです。
今、バンクーバーで家を買おうと思えば、数億円すると言われます。(わが家はバンクバーに当分帰れません。もしかすると、ずっとこの家で暮らすのかも…)
失った財産は戻りませんでしたが、それでも、戦中にカナダの市民権を持っているにも関わらず、敵国民と言われ不当な扱いを受けたことに対して「謝罪」をもらえたことが、夫の家族は何よりも嬉しかったようです。
下の写真の中に、この時代を生きた日系カナダ人の言葉があります。
夏にカナダに行ったときに、日系人の多くが住んだ町にある記念館へ行って来ました。魚の持ち込みはだめだけれど、写真は大丈夫とのことで何枚か取りました。
フランクさんの言葉
Before the war, We were Japs .But after the war,I was Frank.
戦前は、私たちはジャップだったが、戦後、私はフランンクになれた。
※ジャップ=日系人への差別用語
29年前の謝罪は、日系人が尊厳を取り戻す大きな出来事だったに違いありません。また、戦中にあった日系人に関する悪い噂の内容は、全く事実無根だったそうです。
今、書いた中のどの経験も私にはない。今後もしたくない。
毎年、原爆ドームを見る度に、世界のどこにいても、この戦争時代を生きた人々は本当に苦労されたのだなと思わされます。
広島平和記念公園を歩いた後は、3年程前に駅前にできたコストコに寄り、夫の好きなシリアル、キヌア、ソーセージなどの輸入食料で車のトランクをいっぱいにして岡山に帰りました。アメリカの大型スーパーに行くなんて、一昔前ではありえないこと。今の時代の日本に生まれ、平穏に暮らせていることに感謝です。
遅くなりましたが…
このブログを読んでくださっているジョイスのお友達が、今年も神様のめぐみ溢れる一年を過ごされますことを心よりお祈り申し上げます。
寒い日が続きますので、お風邪などひかれませんように。