今、お腹にいる子への責任と、今現に生きて育っている娘さんへの責任は違うでしょう。出産でお母さんに何かあれば可哀想なのは残された家族なんですよ。
無脳児を産むとき、奇形のために骨が飛び出していたりすると産道を切り裂く、産道裂傷になることがあるらしいよ。産道裂傷について調べたら、 死に至ることがあると書いてあり手が震えた。
産むべきか悩んだのは、やはり娘のことを考えたからでもあった。
何かあって寂しい思いをするのは、私の家族であろうと想像できた。
実に、私の知り合いでも出産で大きな障害を抱え、家族と離れてグループホームで暮らしている女性がいる。赤ちゃんは無事だったが、母親は出産時に脳の血管が切れて、酸素が頭に回らなかったそうだ。
その女性の娘さんと出会ったのは小学生の集まるキャンプだった。当時は、何も事情を知らなかったのだが、4人兄弟で生まれたばかりの赤ちゃんを小学低学の彼女があやす姿がかわいいくて印象的で、すぐに彼女と仲良くなれた。
キャンプ中、私と手をつなぎたがり、お姉ちゃんと呼んでもいいって聞いてくれたので「30近いお姉ちゃんでもよければどうぞって」応えると、すごく喜んでくれた。でも、夜寝るときになり、お姉ちゃんのお布団に一緒に入っていい?って聞かれてすごく迷ってしまった。彼女だけ特別に扱ってしまうといけないと思って断ったけど、あの時『いいよっ』て言ってあげれば良かったって、5年前のことだけど今でも思い出す。
きっとお母さんが出産後帰って来なくて、寂しかったんだろうな。ただぬくもりが欲しかったのだろうな・・など幼心を思うと、今でも心が切なくなる。
医師の話しを聞きながら、彼女のことを思い出し、私の決断により同じ思いを娘にさせるかもしれないと思うと、たまらない思いになった。
それでも、結局、私は産むことを選んだ。出産へのリスクをたくさん聞いたし、中絶を説得しようとする人がいたけど、聞き入れなかった。
私には、娘への責任はあるが、胎の子も彼女も同じ命としか思えない。
数センチ程のお腹にいるわが子と、長女(まなみ)への重みは同じだった。
娘を産んで2年9ヶ月、誰からも母親としての責任などと言われたことがなかったが、確かに、私には神様から与えられた母親としての役割と責任がある。産むことを決断した今、娘のためにできることは何か責任について考えた。
私が長女にしてやれることは、ママは愛してくれていたって思いを残してあげること。神様を本当に信じていたと分かってもらうこと。神様の計画は、完全であると思いを彼女の中に宿してあげることだった。
2歳9ヶ月の彼女がどれくらい理解して覚えてくれているかわからないけど、彼女と質のある時間を過ごすことが、もし万が一何かあったときに私が今できることだと思う。
そのため、仕事を辞めることにした。来月4月から入園する保育園も、月極め保育を断わることにした。
子育てしていても、なんとなく時間が過ぎていることが多いから、彼女の心を整えたくさん愛してあげようと思う。
「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」ローマ8章28節
「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」伝道の書3章11節
「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。」
エレミヤ29:11
私たちに神様の計画ははかりしれず、また知ることも許されていないかもしれない。でも、私たちに与えられた計画は災いではなく希望を与えるものであり、すべてのことを働かせて益としてくださいます。
追記(2週間後に、産道裂傷について私に伝えた方から、無脳児を出産するときのリスクとまでは言えない。訂正しますと言われた。えっ!?でも、良かった。信仰がゆさぶられた2週間だった・・・)