ジョイスの脳を回復させ奇跡を起こしてくださいと祈る一方で、それが神様のご計画でなければ死んでしまうと思うと寂しくてたまらないんです。
祈るときも心ここにあらずで、無脳児は7ヶ月でも進行状況により出て来るかもしれないから、色々と万が一のために準備しなくてはいけないのに無気力で何もしたくないんです。ただ混乱して泣く私に、ひろこ先生は言われた。
”アブラハムと同じ信仰を持ちなさい”
アブラハムは妻サラが不妊だと知っていたが、神様から子どもを授かることを信じていた。現実が不可能だと言っても、神様の言葉を信じぬいた兄弟に倣い同じ信仰を持ちなさい。
アブラハムが神様に、息子のイサクを神様への生け贄として捧げよと言われたときも、神様を信じきっていたからできたのであろう。三日間の旅の道中、どんな思いでいたのだろう。イサクの体に縄をかけるときも、神様を信じきっていたからできたのです。
同じ信仰を持ち、ジョイスの死の準備をするときも神様を信じぬき、淡々と行いなさい。そこに感情を入れてはいけません。棺の準備や死後の手続きや調べものなど・・・ 仕事のごとく行いなさい。目の前で起こることをそのまま見てはいけません。例え、ジョイスが死んでも、その先があるでしょう。この世では、死が終わりであると言うけれど、ジョイスはあなたの信仰を通して彼女は天国で永遠に行き続けるのです。
信仰を持ち祈りつつ、奇跡を期待しつつ、現実の問題(死の準備)を遂行することができるのか?
アブラハムのような、神様を信じきる信仰を持ち、現実のしなければならない
タスクに感情を入れずに行うことです。
そして、最後にひろ子先生は言った。
「自分の思いに死になさい。泣き止みなさい」
神の子イエス様自身も ”友”と呼んだラザロが死んだときに、泣いたくらいなのだから、私だって泣いていいんだと自分の感情を出して泣き続けた一ヶ月間、私は誰のために泣いていたのか?
答えは、「自分のため」だった。
自分の願望が叶わないかもしれないことが嫌で、自分のために泣いていたことに気づかされた。
聖書には、生まれない者や流産の子は幸いだと書かれているのに、アーメン(そのとおりです)と言えない自分がずっといた。(伝道の書4:3,6:3)
私は、ジョイスに生きて欲しいって願っていた。生きて一緒に何気ない日常を過ごしたかった。長女と遊ぶ姿が見たかった。一緒にお散歩に行きたかった・・・ それが、叶わないかもしれないことに、私は泣いていただけだった。
罪を犯すことなく、裁かれることなく天に行ければ、彼女は最も幸いになることを知っているのに、自分の思いが叶わないかもしれないことに納得できなかったのだ。
聖書にはこのように書かれている。泣く者は泣かないもののように・・コリント7
そして、泣き止もうと決めた。考えてみれば、イエス様の涙は、ご自身のために流したものではない。自分の願望のために泣くのはやめよう。自分の思いに死ぬことによって、神様に真に従うことができるだろう。
昨日、泣いた私を心配して夫は早く帰宅してくれたようだが、私の吹っ切れた様子にひょうし抜けした様子だった。
今日はどんな感じ? ってたずねる夫に
もう、泣くのやめたの。って応えた。
あっ・・そうか。よかったね。
(昨晩の取り乱しようはどこに行ったのだ?といった反応)
イエス様も泣いたように、確かに、泣いていいときがあるはずです。
神様は私に感情をありのままに出し、十分に泣き、悲しむときを与えてくださった。でも、神様は「泣くものは、泣かないように」とも言われます。悲しみに伏せ、喜びのない今の状態を神様は喜ばれないだろう。私のために祈り支えてくれる人が辛いであろう。ジョイスも私のお腹の中でそれを感じると思う。
そう、だから私はもう自分のためには泣かない。
夫は、ホッとして 私に君はフォレストガンプの主人公みいだって笑いながら言った。(どう言う意味か・・ )