まだ3cmのジョイスが生きない子だと診断された夜、夫が神様に祈り与えられた御言葉をジョイスのセレモニードレスに刺繍した。
1:17 あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。
Every good and perfect gifts come from the Father of Lights who dose not change like shifting shadows .James 1:17
頭のないわが子のエコー写真を見て、夫は言った。
どんな形でもこの子が神様からの与えられた私たちへの美しいギフトだと。それは、完全であり変化されたものでも、影のあるものではない賜物なのだと。
夫の純粋に神様を愛する信仰に支えられてきた。
み言葉の周りに、星を散らばせた。神様がアブラハムに見せた約束の満天に輝く星をイメージして縫い付けてみた。ジョイスもこの契約の祝福の中にいる・・・
聖書の中に出てくる、アブラハムという老人の話しを読むとき、いつも励まされる。アブラハムとその妻・サラが、神様を信じるとはどういうことかを何度も教えてくれた。
アブラハム百歳、サラ九十歳の間には子どもがいなかったが、神様がサラは男の子を産むだろうと言われる。九十歳なんて、私の祖母の年齢だ・・・でも、彼らは信じて子どもが与えられた。
聖書には、アブラハムの信仰をこのように書いている。
彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、「あなたの子孫はこうなるであろう」と言われているとおり、多くの国民の父となったのである。 すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。ローマ4:18-19
『現実を受け入れた上で、それでも神様を信じる。信仰と現実は別ものである。』私の教会の牧師が言っていた。
妊娠3ヶ月に入ってすぐに、ジョイスの頭蓋骨がないことが分かった。形成されるように祈っていたが、頭蓋骨は形成されなかった。すると、羊水の中で脳が溶けはじめた。どんどん死へと向かうわが子の現実をずっと見続けてきた。妊婦検診のエコーでジョイスを見て、「まだ頭が出来てない...」と呟いた私に、医師は「残念だけど、もう出来ない。決して、出来ることはないんだよ」と言った。
それが、現実であり、医学書に書かれている事実である。でも、私のテキスト(聖書)には死人を生かし、無から有を呼び出される神様のこと、イエスキリストという方が、目の見えない人や病人を癒し、たくさんの奇跡を起こされた事実が書かれている。
だから、私たち夫婦は、現実を認めた上でジョイスの脳と頭が形成されることを待っています。そして、この世で私たちと共に神様の内に喜び、また神様に従うものとして生きれるようにと祈っています。 ジョイスは生きないというこの世でいう事実を受け止めた上で、真の神様が起こされる奇跡を信じています。
そのため、37週に入った今でもエコー画面に映るジョイスを見る度に「出来たかな?イエス様、ジョイスの脳作られたかな?」と期待してしまう。
あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。(ヨハネ15:7)
わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。(ヨハネの手紙第1 5:14)
ジョイスが生きることが、神様の御旨かどうかは分からない。神様は、ジョイスを産む想いを私たち与えられたが、その後のことは語られない。だからこそ、祈り求めたいと思う。
求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。(マタイ7:7-8)
しかし、ジョイスがこの世で生きることや新しい頭が与えられることが、神様の計画ではないのなら、それはそれで受け入れようと思う。神様の御旨は別にあるのだから、それを待ち期待しようと思う。。
来週の土曜日が予定日です。あともう少しです。
無から有を呼び出される神様を信じて、ともにお祈りいただければ幸いです。
皆さんに本当に感謝です!
~私の好きな聖書箇所です~
さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。(ヘブル11:1-2)
信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。信仰によって、ノアはまだ見ていない事がらについて御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世の罪をさばき、そして、信仰による義を受け継ぐ者となった。
信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。
信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。
このようにして、ひとりの死んだと同様な人から、天の星のように、海べの数えがたい砂のように、おびただしい人が生れてきたのである。
これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。(ヘブル11:6-13)