でも、思い悩んでも仕方がない。
神様が与えてくださったジョイスだから。神様に任せよう。
神様が私の胎にこの子を入れられたのだから、私の陣痛が来るときも神様に任せよう。
今朝、聖書のヨブ記を読んでいた。
「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」
自分のものと言えるものは、何もないじゃないか。主(神様)が与えて、主が取られるのだ。だれも、ジョイスを私に与えてくれることはできなかった。与えられた、あなたが取られるならそれは仕方がない。ただ、来たところに帰るだけだ。たとえ帰ってしまっても、神様は私たち夫婦に、ジョイスを通してたくさんの愛と恵みを与えてくれたじゃないか。だから、すべてを神様の決断に委ねようと思う。
私が、すべてを委ねたいと思えるのは、私と神様の関係が一方通行ではないからである。神様に祈り求めれば、神様はそれに応えてくださるのを私は知っているから、神様を信じたいと思う。ただ、手を合わせて一方的に願いを唱えているのではなく、私は神様とコミュニケーションをとっている。
先週の日曜日に牧師夫人(ひろ子先生)と話した。
「実は、出産が少し恐いです。」
私は、痛みにすごく弱い。なるべく怪我をしたくないし、病気にもなりたくない。子どもの頃から、荒っぽい男の子たちと遊ぶのは苦手だったし、ボール遊びも痛いから好きではなかった。そして出産に関しては、長女のときの難産がトラウマに近い経験だった。
先生は言われた「大丈夫よ。信仰ではじめたことを信仰で完結しましょう。神様はともにおられます」
その言葉に、私たちが、ジョイスを神様からの完全なギフトとして受けとったこと、神様を信じたからそうしたことを再確認し、神様は私のサイドにおられるのだと勇気付けられた。
「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
私たちすべてのために、ご自分の御子(イエス・キリスト)をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」ローマ8:31-32
神様は私を愛し、慰め、勇気づけ、時に戒め、さまざまなシチュエーションで語られます。どうやってと思うでしょう。!?
それは、聖書の中からの御言葉や教会の礼拝メッセージを通してだったり、人を通しても語り教えられます。また、直接今まで思いもしなかった考えや思いを心に入れてくださったりすることもあります。
実は、この妊娠期間中に何度か神様に伝えました「出産が恐いです」「恐れるなって、聖書にかいてるけど恐いものは恐いし、何より痛いでしょう!」
それ以外にも、神様に不安を伝えた。
私が大変な障害を負ってしまったらどうしよう。先立ってしまい、娘に寂しい思いをさせるようなことになったら、外国人の夫をシングルファーザーにしてしまったらどうしよう。言い出したらキリがない。
私は、死後の世界が恐いわけではない。死後は、天国に行くのが分かっているから、死への恐れはない。でも、自分に何かあったときに残された家族が心配なのと、この神様の恵みの中で育んだ家族を恋しく、寂しく思うだろう。
毎晩、娘の穏やかな寝息を聞くとき私の心は平安と祝福に満たされる。娘の寝顔を見ながら、何度となく神様に祈った。まだ、天国に行きたくない。天国が最良の場所であるのは分かっているのだが、娘の温かく、このふわふわな小さな手を握れなくなってしまう。一瞬一瞬の成長や、くったくなく笑うこの愛おしい笑顔を見れなくなってしまう。また、夫とお腹を抱えて笑うことも、いろんな語り合いをすることも、この温もりと優しさに包まれることもなくなり、一緒に歳を重ねる楽しみがなくなることを思うと、まだ私の命を取らないで欲しいと祈るのだった。
出産前に、ここまで死を考える人はあまりいないだろう。私も長女のときは、全く考えなかった。でも、今回は色々学びすぎ、知りすぎたし、色々と備えているからだと思う。
そんなことを考えながら、祈っていたときに神様は聖書の詩編を読むようにと私の心に思いを与えられた。
神様は、私が恐れるときに、「右手」が出てくる聖書箇所を私によく読ませてくださる。私が、クリスチャンになって間もない頃だった。聖書のこともあまりよく知らない、神様は信じたが、まだ昔の古傷がいえず、憎しみや悲しみを手放すことができなくて、苦しく、孤独感に押し潰されそうで涙が絶えない日々を過ごしていた時だった。
ある夜、目を覚ますと私の足元に白い衣をまとった大男が立っていた。頭は天井につくほどの大男で、今でもあれがイエス様なのか、天使なのか何者か分からない。実際に、夢なのか現実だったのかも定かではないが私はその大男を見た。その次の夜、イエス様が私の夢の中に現れて、私の右手をつなぎ、そして言われた「共にいる」と。夢から覚めたときにも、まだ握られた感覚が右手に残っていたのを覚えている。イエス様もまた白い衣をまとっていた。
ただの夢でしょうと思う人はたくさんいると思う。でも、7年前に、その夢を神様に見せてもらってからは、私の右手はいつもイエス様につながれていると信じている。一方で、いつも思っていたことがあった。イエス様が私の右手をつないだなら、聖書に出てくるイエス様の手は、左手なはずでは!?
でも、聖書に左手の出てくる箇所は少なく、いつも右手だ。でも先日この御言葉を読んでいてようやく分かった。
「主はあなたを守る者、主はあなたの右の手をおおう陰である」 詩編121:5
主は、私の右手をイエス様の右手で影のようにおおっておられるのだ。
私は、一人で出産に立ち向かうのではない。神様がともにおられると言われていると思った。私に命を与えた方が共にいるなんて、そんな心強いことはないと思う。下に続く、聖書箇所を読み、神様は私に恐れるなと勇気づけられおられるのが分かった。
聞け、勝利の喜ばしい歌が正しい者の天幕にある。「主の右の手は勇ましいはたらきをなし、 主の右の手は高くあがり、主の右の手は勇ましいはたらきをなす」。 わたしは死ぬことなく、生きながらえて、主のみわざを物語るであろう。 主はいたくわたしを懲らされたが、死にはわたされなかった。詩編118
神様により、私の心にまた平安が与えられた。私の出産と命は主によって守られるだろう。ジョイスは、神様のいる場所に近い子だからどうだろう。 まだ、分からない。
神様、ありがとう。
私たち家族&ジョイスを愛してくださる方々「ありがとう」
お祈りをしてくださってくれいる方々「ありがとう」
競歩のごとく歩く私の後ろを
ご機嫌で歌を歌いながら遅れてあるく夫。
「あなた遅い!私と同じペースで歩いてよ!」と振り返ると、夫は踊っていた(笑)
なぜ、踊っているのと思ったが、この陽気さが夫なのだ。また、私達二人の温度差が違いすぎて、力が抜けて笑えてしまった。
ジョイスがしんどい思いをしていたら可哀想だと思い、早く産まなきゃと神経を尖らしていた自分に夫のおかげで気付き、また笑うことができた。
自由に歌い歩く夫のペースにスピードを落とし、一緒に歌を歌った。そして、人がいなかったので夫のダサい踊りにも少し付き合った。
夫の滑稽な踊りを見た瞬間に、張り詰めていた思いがすっと緩むのが分かった。私が沈んでいると、夫はピエロになって励ましてくれる。いつも、ありがとう。