みんな泣き、笑い、賛美し、祈り、まるで日曜日の教会のようだった。
今思うと、あの瞬間は教会だったのかもしれない。イエス様がいたと思う。また、彼らの一人一人が「ありがとう」と感謝の思いを神様に捧げていたに違いない。
分娩台の上で、胸元にジョイスをおいて2時間、カンガルーケアーをしていた。その温もりと吐息を肌で感じながら、神様のつくられた我が子を眺めていた。
小さな口、閉じられているけれども美しい目、夫から受け継いだであろうと思うと鼻、頭のサイドには髪の毛も生えている…ずっと見ていても見飽きないほどに可愛い。ジョイスが無脳症だと分かっている、命が短いのも聞いている、それでも神様の美しい被造物を目の前にし、ジョイスが永遠に生きるような気がした。
ジョイスは、健常な赤ちゃんと同じように普通分娩で産まれてきた。生まれた、生まれた!と彼女を囲んでみなで喜び、産んだ母親がみなするように胸元にジョイスを抱いてカンガルーケアーをしていた。母親が当たり前にすることが、ジョイスとすべて出来ているのが夢のようだった。私は、幸せの極みにいたのだと思う。この当たり前の一つ一つが、この先もずっと続くような錯覚に陥りそうだった。
病室のベッドで5日間過ごした後、一緒に退院して、家では、授乳とオムツ交換に数時間ごとに起こされ”寝たい~”って言いながら育児をしている自分の姿を想像していた。その喜びの夢心地の中、ジョイスのガッーという大きく酸素を吸い込む音を聞いた。
現実に戻らないといけない。
立ち去ろうとする小児科医をつかまえて尋ねた。
「先生、ジョイスの命は後どれくらいでしょうか?」
「うん...なんとも言えませんが、半日以上は生きないと言われていますね。」
そうだね。分かってて、産んだんだ。神様がこの子の命は決められてるんだから、それまでの時間を一緒に生きよう。
ジョイスの呼吸は不安定だった。呼吸をしたりしなかったり、時に数秒間呼吸をせず、その後でガッーと音を立てて大きく酸素を吸い込むような不安定なものだった。
小児科医が去った後に、牧師がジョイスの上に手を置き、神様に祝福と捧児の祈りをしてくれた。
「神様、母子ともに守ってくださり感謝します。今、ニシジョイスをあなたの子として捧げます…」
私も心の中で祈った。
あなたの子だから、あなたに捧げます。
私のものと言えるものは何もない。あなたがこの子をつくられて、私に与えられた。いつか時が来れば、この子はあなたの元に帰る。
でも、それまでの時をどうぞ祝福してください。
神様、私は覚悟が出来ている。
神様のなされることは、すべては時にかなって美しい。(伝道の書3)
あなたは、私に産む時、抱く時、笑う時、愛する時を与えてくださった。だから、死の時も同じように受けよう。
ただ、生きて産まれてきてくれただけで嬉しかったから"半日以内"と聞いても受け入れることができた。神さまは十分に私たちの願いを叶えてくださった。もう、覚悟もできている。
だから、私に言えたのは「ありがとう。」それだけだった。
ジョイスを生かして会わせてくれて、私たちをこの世でも両親にしてくれて本当にありがとう。