ジョイスの骨壺とともに、火葬場を後にした。
夫はカナダから来ている両親や長女のことも気になるので早く帰ろうと言ったが、私は帰れないと言って夫を困らせた。
こんな顔でどうやって、長女に会うの?
一年ぶりにあなたのご両親に会うのにこんな状態で会えないと伝えた。
ひろみは、そのままでいいんだよ。彼らは、ひろみに元気でいて欲しいなんて望んでいないよ。元気すぎたら逆におかしいでしょ...
夫がそう言っても、ジョイスが旅立って、3日しか経っていないのにもう色んなことを忘れてしまいそうなことが不安でたまらなかった。ジョイスがどんな風に泣いたか、どんな泣き声だったのか、穏やかな寝顔も、微笑みも、温もりも... 何一つ忘れたくないのに、日が経つごとに忘れてしまいそう。思い出せなくなったらどうしよう。
自分がまだしっかり覚えているか、心の整理をしなくてはならないと思った。
ジョイスが天国に帰り、亡きがらもこの世から完全に消えてしまった。本当にジョイスがここにはもういないことをよく理解したら、ひどい焦燥感で自分が混乱していることが分かった。
ごめんね、やっぱり家に帰れないと私が言い張るので、家までにある河川敷に少し寄り道してから帰ることになった。
河川敷に二人で座り、日が傾きはじめた空を見上げた。
どこまでもどこまでも澄んで見えるその空を見上げる私の心は、
深く深くどこまでも痛む感じがした。
夕どきの空に浮かぶ小さなハート型のような、羽のような形の雲は、ジョイスのように思えた。
少しの沈黙の後に、夫が空を見上げながら静かに言った。
「ジョイスが本当にいなくなったね...。 」
「ひろみ、ジョイスが見える?
ぼくには、ジョイスが見えない。
ジョイスが見たい...」
「私にも見えない..」
夫が続けて言った。
「天国は、うえかな? 空にあるのかな?」
「マナ(聖書にでてくる天から降ってきたパン)は上から降ってきたから、上じゃないかなぁ」と言うと、夫は、空を見つめたまま、「そうか..」 と応えた。
夫の静かな話し声を聞いていると心が少し落ち着きはじめ、胸の痛みが少し和らいだ。
夫は、泣きやむことのない私とは逆に、一滴の涙もこぼさない。
「あなた、泣いた?」少し心配になって聞いた。
ジョイスが天国に帰った日に夫の涙を見たが、それ以降は見ていなかった。
私が心配したのは、夫が泣いているかではなく、夫が感情を出せているかだった。
夫は、「泣いていないよ」と 答え、自分でもよく分からないんだ... と続けた。
「分からないんだよ。
感じないんだ。何も感じれないんだよ。
きっと、忙しすぎるんだと思う…。」
私は、「そうだよね。忙しすぎるよね。」と夫に言い、私が病室のベッドで泣いている間の夫の生活を想像してみた。
確かに、そうかもしれない。
出産した日から、4日しか経っていない。出生と死亡の両方の手続きを行い、身内への連絡、2日前にカナダから到着した義理の両親のこと等々、長女の世話に加え、イレギュラーなことが山積みに夫の肩に一気にのしかかっているのだと思った。
感情にふたをしてしまっている夫が少し不憫に思えた。
「あなた、私たちのために、色々とありがとう。
泣きたくなったら教えてくれる? 一緒に泣こうね。」と夫に伝えた。
今は、夫はまだ責任を背負い、気を張っているから泣けないんだ。
夫の感情を解放できるときを待とうと思った。そのときは、夫がいつも寄り添ってくれるように私も寄り添い、一緒に泣いてあげたいと思った。
夫が、私の方を見た言った。
「実はね、僕はひろみが無事だったことの方が嬉しいんだ。
ジョイスのためには、ジョイスに無脳症が見つかり、一緒に生きることができないと分かったときにたくさん泣いたからね。」
意外な言葉だった。
私が無事だったことが嬉しかったという夫の言葉を聞き、自分が生き延びていることに気づかされた。
そうだった、この出産で命を落とすかもしれないと真剣に思っていた私は、出産前に遺書まで書いていたことをすっかり忘れていた。
私が生きている。それを喜んでくれる人が私にはいる。
夫が冗談交じりに「後ね、ひろみのお父さんに殺されなくて本当に良かったよ」と言ったのが少し面白くて笑った。
少し笑顔がでて、涙をふき始めた私の姿を見て、夫が続けて言った。
「周りの人たちは、僕たちのことをどう思っているだろう?
きっと、別れ話しをしてるカップルだと思ってるはずだよね。」
「ちがうでしょ。私たちの年齢を考えてよ。
離婚話しをする中年夫婦だよ」と言うと、
「そうか、僕たちそんな若くないんだ」と夫は言った。
少し元気が出てきた私の手を夫が取り、 そろそろ行こうかと歩き始めたときに、夫の足元のサンダルが目に入ってきて、言わずにはいられなかった。
「あなた、なんでスーツにサンダルなの?」
「忙しかったんだよ。」
「ひろみこそ、なぜ、その格好に黒のハイソックスなの?」と言い返してきた。
そして、夫は、思い出し笑いをして、あの日の緑色のハイソックスもひどかったよねと、私が必ず笑う話題を持ち出してきた。
夫は、私を笑顔にさせるのが上手だ。彼の心も疲れ切っているだろうけれども、私を励まそうとする彼の精いっぱいの優しさに応えて、私も笑顔を見せ笑った。
少し元気が出た私に夫が言った。
「家に帰ってお祝いをしようよ。
ひろみが無事に家に戻れることと、ジョイスの天国への旅立ちをお祝いしよう。」
そして、お祝いのためのお寿司とフライドチキンを買って帰路についた。