一週間前に、教会の日曜礼拝に来たときは、ジョイスもお腹の中いた。
家族四人で、神様に会いに来たが、今日は違う。
月曜日に出産し、火曜日にジョイスは天国に帰った。水曜日は、ジョイスが生きたその亡き骸と過ごし、木曜日、火葬した... そして、また日曜日が来た。
この一週間で、喜怒哀楽のすべて、またそれらに分類できないほどのたくさんの感情の渦の中をくぐってきて、今、自分がどのような思いでいるのかが分からない。
ただ分かるのは、心を突きぬくのではと思うほどの喪失感と切なさがあった。
「神様、あなたは与えられたが、取られた。
この喪失感を憂いも寂しさも、喜びと希望で埋めてください。
溢れる涙をとめてください。」
そう祈るほかはなかった。
礼拝後に、みんなに今まで支えてくれてことのお礼と報告をした。
その場で言えたこと...
「今は、寂しい思いもあるけれども、彼女の命を通して、人を愛すること、天国への希望、神様を信じる信仰が増し加えられたと思う。
ジョイスを産んで良かったです。」
今日くらい教会に行かないでおこうかと思った。
でも、こんな日こそ行かないといけないのだろうと痛む体と心をひきずりながら教会の玄関をくぐった。
教会に足を踏み入れると、たくさんの人が駆け寄ってきて、「ひろみが無事でよかった」と口々に言った。普段あまり話さない人まで、目に涙をためて私の手を取ってくれていた。
実は、ひろみが無事でよかったという言葉を聞くたびに、何度も違和感を覚えた。
なぜ、みんな、ジョイスに会えてよかったねとか、ジョイスが生きて生まれてよかったねといかを言わないのだろう....
ここにいる人々は、ジョイスが生きて生まれたことより、私が、今、生きていることを喜んでくれている。
声をかけてくれる方々に、「お祈りありがとうございました。感謝します.... 」と、まるで壊れたラジオのように、同じことを繰り返し伝えた。
それが本心であったし、それ以上には、感情を上手に働かせることができず、色々と言葉にすることができなかった。
その一方で、心の中でジワジワと気付くことがあった。
皆の言葉を耳にしているうちに、
「私は愛されている」
「私は生きている」
「私は想われている」
「私は大切な存在である」.....
違和感を覚えつつも、間接的にそう言われているよう感じていた。
中学生の頃、よく考えていたことがあった。
私の子ども時代を振り返ると、かなり根暗な子だったと思う。
「私がもし、死んだら何人が悲しむだろう...」そんなことを考えていた。
きっと、浜崎あゆみの最盛期だったのも影響しているかもしれない。
いつも思い浮かべたのは、父と母と祖母の3人だった。そして、「だから私はまだ死んだらいけないな」と自分を納得させていた。
あれから20年の間にたくさんの人に出会った。今、私の周りには、私の無事を喜んで涙する人がいる。出産前には、今生の別れでも伝えにくるかのように、新幹線や車で何時間もかけて訪ねてきてくれる友人や知人もいて、身に染みるほどに嬉しかった。
私の家族は、本当にたくさんの愛情を注いで育ててくれたと思う。本当に。
しかし、昔は、それに全く気付くことができず、かなりな寂しがりだったと思う。
4歳違いの姉には知的障がいがあったので、両親はいつも忙しいそうだった。そんな中、私が幼稚園の年中のときに、妹が産まれた。
両親は、上と下お世話でいつも忙しく、真ん中の私の存在は忘れられているように感じられ、いつも「見て!見て!」と、背伸びして両親の前だけは、上手にいい子ぶっていたので、両親は、「真ん中は、本当に手のかからない子で助かるわー」と言っていた。
一方で、自分が両親の気を引くために、障がいのある姉や小さな妹に意地悪や、蹴落とすようなことをよくしていた気がする(していた。ごめんなさい。)
兄弟がたくさんいる家庭の子はよくあることだと思うが、当時の私の心は両親の気持ちを自分に向けて欲しくて、いつも心の中心には、「愛されたい」「愛されていると知りたい!」という思いがあり、そのために必死だった気がする。
今日、教会に入ったとき、私の手を握り「神様、ひろみちゃんを守ってくれてありがとう」と言うなり、緊張の糸が切れたかのように、うゎーっと泣いた女性がいた。
彼女の涙を見たとき、私の心の中に神様の御言葉が一つあった。
「あなたは、高価に尊い」イザヤ43章4節
ジワジワと自分がここにいるたくさんの人々に愛されていることを感じながら、自分があれほどに「愛されたい」と一途に思って生きてきた子どもだったことすら忘れていたなと、不思議と急に昔のことが記憶としてよみがえっていた。
8年前にクリスチャンになってからは、「愛されたい願望」は少しずつ減っていった気がする。
「神様に愛されている。」その確信が持てたときから、ずっと埋まることのなかった寂しから解放された。
それ程に、神様は私を変えてくれたんだなと気付いた。
「もし、私が死んだら何人が悲しむだろう…」と考えたとき、昔は3人くらいだと思っていたが、今、同じことを考えたら、私の勘違いも含めて数えきれないほど人の名前があがると思う。
教会の皆には、
ジョイスの命を通して、神様によって増し加え与えらことを三つ伝えた。
”人を愛すること、
天国への希望、
神様を信じる信仰”
しかし、もう一つ付け足すことができた。
”私が、すごく愛されている”と気付けたこと。
神様が子どもの頃の私の祈りを聞いてくださったことに気づけた。
私が神様のいう「あなたは高価に尊い」と言われて御言葉を体験して学ぶことができたのも、ジョイスを産み、私へ与えられた神様からの贈り物だったのだろうと感謝した。
”ジョイスを産んで、愛することを学んだ。
また、愛されていることも知った。”
神様、ジョイス、ありがとう。
また、皆さん、たくさんの愛に感謝します。