前日が休みだったせいで、斎場内はひどく混雑していた。
車を停めて、斎場を見上げると、黒ずくめの人々がぞろぞろと流れ込んでいくのが見えた。ジョイスの棺を夫婦で抱え、その人々の後ろに立つと、黒ずくめのかたまりに飲み込まれるかのように斎場に押し込まれていった。
線香の香りが立ち込める斎場内に入ると、人込みの中で手招きをする木村牧師夫妻の姿が目に入り、そのまま合流して、予約をしておいた葬儀場へと移った。
葬儀会場は、火葬場の手前にある だだっ広い場所を一枚の壁を何枚か使い広場を区切っただけの火葬場までの通路のような空間だった。出入り口の扉や天井がないため、次に葬儀をする人々の姿は入口あたりに見えるし、葬儀が終わった人々は私たちの姿を横目で見ながら、会場出口の前を通って次の場所へと移動していく。複数の葬儀が同時進行で行われているため、常に、僧侶たちの経を唱える声が聞こえてき、一つの葬儀が終わったと思えば、数分もしないうちに、次の葬儀が始まる。時おり、大きなドラや鐘が鳴らされ、間近で突如 鳴り響くごう音があまり好きではなかった。
私たちの会場の奥には、火葬炉が見えており、そこからはガチャン、ガチャンと炉の扉が閉まる音、バーナーが稼働するような大きなゴォー―という騒音が定期的に聞こえてきいていた。
愛する人を送り出す最後の場所は、騒々しく、プライバシーもなく、コンクリートの灰色と喪服の黒色ばかりで、想像した以上に落ち着かないところであった。
なんとも表現しがたい場所だと私が言うと、夫は、まるで大きな工場みたいだと言った。
そのような中、ジョイスの体を火葬する前の火葬前式は始まった。
葬儀台には、淡いサーモンピンク色のサテン生地のクロスが掛けられてあり、その上に、十字架とジョイスの写真が置かれていた。クロスは、咲子さん(牧師婦人)がジョイスに合っているだろうと特別に作ってくださったものだった。
賛美後に聖書を朗読、そして牧師により祈りが捧げられた。
"わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか" ヨハネ11:25〜26
神様。くすしきみ旨と哀れみにより、みもとに召された ニシジョイスの亡きがらを、今、神様のみ手に委ね、土を土に、灰を灰に、塵を塵にお返しします。
肉体は、私たちの目の前より消えて失われますが、神よ、あなたのみ前では、木の枝一本でさえも空らしくならず、終わりの日、イエス様がもう一度戻ってこられるとき、新しい体に変えられ、素晴らしい恵みにあずかれることを強く信じます。
主が与え、主が取られたのだ。主の御名をほむべきかな。
栄光の主が来られる日まで、ニシジョイスの霊魂を主とともに天国(パラダイス)で憩わせてください。
やがて主がこの世に戻ってこられるとき、主との祝宴の席で(子羊の婚宴の席で)とこしえの恵みを与えれれることを硬く信じて、イエス様の御名によって祈ります。
夫と準備したたくさんの讃美歌を周りの騒音にかき消されてしまわないように、力を絞って4人で神様に捧げているとき、この賛美がジョイスのいる天国まで届いて欲しいと真剣に願った。
”ジョイス、ママが神様のために歌うこの歌声があなたにも聞えるだろうか。イエス様と一緒に聞いているのだろうか...”
最後に、もう一度牧師が神様に祈りを捧げ、三十分ほどの火葬前式を終えた。