雨気をたっぷりと含んだその雨雲を眺めていると、まるで自分の心の中を投影しているかのように思えた。
いつ大泣きしだすか予測できない雲は、突如、大きな音を立て、雷やひょうなどを落としかねない、おっかない積乱雲のようだつた。
ジョイスが天国に帰って一年半が経った。この間、ジョイスを想わない日は一日もない。
私の毎日の日課というか楽しみは、自然美を見ることで、特にジョイスが旅立った後は、その美しさの中にジョイスの欠片を見つけては、小さな喜びをもらっていたが、最近はその日課ができなくなり、それを無理にしようとすれば、小さな痛みを受けることさえあった。
この数ヵ月間は、あれほど見つめ続けた空も見上げることができなくなり、聖書もひらけなくなり、神様への祈りも心の奥で呟くほどで声に出せなくなった。
人のことに関しては祈ることができても、自分の状態には、目をあてることができず、ただただ周りに迷惑をかけないように、雨雲から雨粒がこぼれ落ちないように耐え忍んでいた気がする。
神様の愛は、計り知れないという。
私たちの知るよしもないその計画の中で、私はジョイスを授かった。
ジョイスと過ごしたこの世での時間はとても満たされていたし、その祝福は今も続いていると信じている…
そう…、そう信じている....。
しかし、実際は、心と頭はバラバラの動きをすることがある。
心は、痛みを抱えたままどこかで道草して休憩をとり、頭は“信じる、信じる”と言いながら、必死に平然を装い、日常をこなそうと前へ前へと進もうとしていた。
私は、ジョイスの死を手放すと決めた、乗り越えた、私は大丈夫になった… そういって歩み始めても、気付くと、首を深く垂れて立ち止まってしまうことがある。
こんな堂々巡りの話ばかりをしているのも恥ずかしいし、人によっては、だから産まない方がよかったでしょと思う方もいるだろう。
それでも、やはりジョイスを産んで良かったといのは、変わらない。
私に愛しい娘たちがいることは本当に、私の中の喜びだから。
先日、牧師夫人の咲子さんと話をした。
「ひろみちゃん、悲しそうだよね。痛みの中にいるんだね。忙しさの中に身を投じて、この世に埋没している感じだよね... 」と言われた。
まさに、その通り... 見抜かれている。
こんな日々が続く中、ある日曜礼拝で聞いたメッセージが心に響いた。
「過去を捨てましょう!」と言っていた。
受けた痛みを今も持ち続けるのをやめよう...
「痛みがあまりに深いゆえに、あなたの人格と溶け合って、あなたのことを形成していますよ」
「その痛みは、イエス様との間を隔て、引き離すものになっています。」
牧師は続けて言われた。
「それは、とても痛い経験だったけれども、私の人生に必要だったから、神様は与えられたのです」
「その痛みを与えたのは、神様です。」と牧師ははっきりと言った後に、
「神様の主権を認めましょう」と言われた。
”神様が決め与えられたという「神様の主権」を認める” と聞いたときに、私の心の中の雨雲が少し動いたのが分かった。
自分でもなぜ心が晴れないのかが、この数か月間分からなかった。なぜ、大好きなはずの自然の美しさにふれると心が痛むのかが分からなかった。
ようやく無視し続けていた感情の蓋を開けることができた。
その中身を覗いてみると、そこには“神様への嫉妬心”があった。
今回のぐずりネタはというと、
なぜ私がジョイス抱いていなくて、神様が抱いてくださっているのか!だった。
私は、恐るべきかな、よく神様に反発する。
頭ではよくわかっているが、心では文句を言いたくなり、でもやっぱり神様だし、はっきり言えなくて、ぐずぐずイジイジしていた。
神様に伝える…
ジョイスがここにいない痛みを解放します。
この世では、私がジョイスを抱きましたが、もともとはあなたが与えてくださった子だからあなたにお返しします。
また、すべてを成され、天国でジョイスを守ってくださっていることを感謝します。「神様の主権を認めます」と祈ったら、私の心にこの数か月間停滞していた厄介な雨雲は過ぎ去って行った。
ジョイスは命が長くないことを医者から知らされていたから、お腹の中にいるジョイスにさまざまなことを伝え、いろんなことを妊娠中にもできたが、自分の子どもの命が限られていると知らず、ある日突然失った人はどうだろう。
長年一緒に過ごした人を亡くした人はどうなのだろう。
きっとみんな平然な顔をしているが、いろいろあるのだろうな。自分だけではないんだな。
みんなどうやって乗り越えているのだろうか。それとも、ただひたすら涙を堪えているのだろうか。
環境が人を作ると言うように、環境はそれ程に人に影響を及ぼす。
受けた傷により苦しみ、人格をも歪ませ、悲しみ、涙を溜めて踏ん張っている人がいれば、本当にそこから解放されて欲しいなと願います。
という、私がまさにその渦中から少し息つぎのために頭を出したくらいなのですが..
最近は、あの積乱雲に心を乱されて、神様が与えてくれた喜びや祝福、たくさんの奇跡を思い出すことができなかった。
4月中旬、岡山市内に大雨を降らした雨雲が過ぎ去ったその翌日、ジョイスの出生記念樹として岡山市から届いた紅葉の木から、小さな若葉が出ているのに気づいた。小さな小さなその葉が、まるでジョイスの手のひらのように思え、なんて可愛いんだろうと心がほころんだ瞬間、私の心がようやく少し前進し始めたことに気付いた。
またいつか、同じように心に雨雲がやって来ることがあるかもしれない。
でも、そのときは、また言おう... 神様の主権を認めると。
そうでなくては、私の心に光りが入ることは決してないのだ、人を愛し、周りを思いやり、自然美に心が溶けそうなるほどに感動することはないのだと思う。
「わたしは彼らおよびわが山のる周囲の所々を祝福し、季節にしたがって雨を降らす。これは祝福の雨となる。」エゼキエル書34章26節
私の中に降った雨も、その時に必要だったから降ったのであろう。
そして、聖書が言うように、それは祝福の雨となるのだと信じたい。
5月中旬、今、ジョイスの紅葉の木の葉は、枝が見えないほどにぎっしりと青葉で詰まっている。
まるで、ジョイスがお手てをいっぱいにひろげて、ママーと言っているように見える。
ようやく、また神様のうちにもどってきたので、ブログ再開します。
次は、ジョイス日記の続きを書きます。
ジョイスのお友達のもとにも、神様の祝福がありますようにお祈りしています。