いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。
これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることです。第一テサロニケ5:16ー18
この御言葉が与えられた2ヶ月後、ジョイスの無脳症が分かりました。
ジョイスと生きた日々には、神様が示された通り、いつも主においての喜びがあり、寝ても起きても切なる祈りと、ただジョイスがお腹の中で生きていることへの感謝がありました。
しかし、ジョイスが天国に帰ってからは、喜びは憂いに変えられ、心ははてなく沈み、この御言葉通りに送れない日々を過ごしていました。
神様が私を様々な状況に置かれる度に、聖書で語られているどの「時」に私は今いるのだろうと考えます。
カナダに到着した夜、夫から御言葉とメールが届いていました。
わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。ヨハネ14:27
「Rest in Him 神のうちに安め。 Enjoy! 楽しめ!」
今は、傷を縫い合わせ、力を抜いて和らぎ、すべて時に叶って美しいと言われる神様を信頼して、平安のうちに癒されるのを待つ時なのだろう。
とは言え、カナダに来ても娘はいつもそばにいるし、夫不在に加えて義理の両親との同居生活です。慣れない土地なので、車にも乗れないし、事情が分からず周りに迷惑をかけたり、とんだ勘違いで恥ずかしい思いをしたりすることもあります。
先日もある一本の道を歩きながら、前回来たときの失敗を思い出していました。以前、その道路で友人を待っていたときのこと。同じ車が何度も私の前を行き来し徐行しながら話しかけてくるので怪しい思い、No!No! と手を横に振り、関わらないでいようとしました。しかし、しつこいことに、またその車が戻ってきて車内から話しかけてくるのです。海外だからやけに警戒心が強くなり、手を腰におき何ですか?と言うと、「すみません... 駐車スペースがなくて... そこをどいてくれたら嬉しいのですが... ?」と丁寧にお願いされました。何度も往来していたのは、駐車スペースを探していただけでした。そして、唯一空いている駐車スペースに私は仁王立ちして立っていたという恥ずかしい話もありました。この臆病な性格は、勘違いしやすくて嫌になります。
スムーズにいかない日もあるのですが、少し環境を変えて主のうちに憩い、楽しみ、喜びたいと思っています。
神様に与えられているこの時、良いときも来る、悪いときも来る、でもすべて神の御手のうちにその時は流れているのだと信じることで平安を持ち、また感謝できるようになると私の牧師が言っていました。
広大な自然の中でゆったりと神様のうちに憩い、元気になって日本に帰国したいと思います。
また、いつも支えてくれる夫にも故郷で解放された時を過ごして欲しいと願っています。
いと高き者よ、あなたによってわたしは喜びかつ楽しみ、あなたの名をほめ歌います。 詩篇9章2節