ジョイスの天国への旅立ち会から一カ月半が経った。ほっとしたせいか、実は少し疲れが出た。
会を終えて、体調を崩した。風邪をひいたし、ホルモンバランスも崩れている気がするときがある。先日は、高熱がでた後に足に謎の斑点ができ、またジョイスを産んだ国立へ。紹介状を片手に、大きな病院の建物を見上げて、また帰ってきてしまったと思った。
産科にはかからないが、産科の受付の前をわざと通りすぎて上の階へ上がった。変わらない顔ぶれを見てほっとする。内科の受診を終えて、病棟に顔を出す。ジョイスはいなくなったが、ここで頑張っておられる方々の笑顔を見ると、なんだか励まされた。
二週間おきくらいかな、寂しさが心にあることに気づく。泣きたくなるときがある。ぐっと空を見上げて、涙を抑えるときもある。思わず涙がこぼれてしまうときは、何の涙だと考えるときもある。産後のうつか、自己憐憫か、ただ泣きたくなるのか、分析力はあまりないと思うが一応分析してみる。周りの優しい人たちが、悲しんでいいのよという。泣いていいのよと。そうなのだろうか。夫も言う。泣いていいのだよ。寂しいなら、寂しいでいいのだよ。自分のための涙は流したくないが、これはなんの涙なのだろう。今は、泣くのが当たり前なのかなぁ。泣くべきときに泣かないと後にくるのかな、泣いた方が元気になるのかな。とりあえず、いろいろ試してみる。
仕事から帰ってきた夫がいう。色んなことが段取り通りに行かず、イライラしている私に、なんで君はそんなにセカセカしているんだ。落ち着いてと言ってくる。指摘されるとさらにイライラしてくる。
そんな夫が、私の手をとり言った。
「ジョイスのことを考えないように、忙しくしているの?」
うーん。わからない。かもしれない。
「ひろみ、寂しいなら寂しいでいいんだよ。泣きたいなら、泣いたらいいんだよ。」
夫が、長女に聞いた。「ジョイスに会えなくて寂しいときある?」
「うん。まなみね、ジョイちゃんに会いたい。
大きくなってヘブンに行ったら会えるのよね。」
「そうだね、会えるね。
ダディもジョイスに会えなくて、寂しいときがあるよ。」
「マミーはどう?」二人が聞いてくる。
うん。マミーも会いたいよと言うと、涙が出てきた。
そうか。ジョイちゃんに会えなくて、私は寂しんだね。
ジョイスが旅立って、3日目にもう大丈夫だと思った。でも、まだまだだった。
6日目に大丈夫だと思った。でも、まだだった。10日目、1ヶ月目、2ヶ月目、もう大丈夫だと思うが、今日、まだだったと気付いた。
疲れているときとか、体が弱っているときは寂しさが心に入りやすいのか。
でも、その寂しさの波がくる長さも徐々に長くなっていくのだろう。
こんな日は、やっぱり聖書に限る。天国はいいところ、希望の場所にジョイスはいるのだから喜んであげなきゃ。天国は希望だからね。
歌声はでなくても、一言でも言っておこう「ハレルヤ」。
きっと天にまで届いているだろう。
神さまは、いつもなぐさめをくれる。
最近、大切な人に送ったみ言葉。このみ言葉がすぐに出たのは、このみ言葉を自分に言っていたからだと思う。
「悲しんでいる人たちは、さいわいである。彼らはなぐさめられるだろう 。...喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。」マタイ5
神様は、私に試練を与えられたが、同時になぐさめや希望もたくさん用意してくれていた。
ジョイスの命を通して、知的障がいのある姉が神様を信じて洗礼を受けた話をいつか書きたいと思う。
ジョイスの出生日記は、ご存じのとおり10月5日の誕生で止まっています。もぅ少ししてからかな。年が明けてからかな。
心に憂いを感じるときは、私の場合は黙っておくのが一番。クリスチャンはいい人だと思っている人がたくさんいると思う。そんなことはない。
「肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。」 ローマ6
肉が私自身、霊が神様。
私の場合、自分の内から出てくるものに良いものはないと思っている。神さまの内に私がとどまるときしか、私は口を開かない方がいいと思う。
まして、心に憂いのあるときはきっと毒ばっかり実のないことばかり吐くだろう。
こんなときは、口を塵(ちり)につけて黙っておこう。
主に望みをおき尋ね求める魂に
主は幸いをお与えになる。
主の救いを黙して待てば、幸いを得る。
若いときに軛(くびき)を負った人は、幸いを得る。
軛を負わされたなら
黙して、独り座っているがよい。
塵(ちり)に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。
打つ者に頬を向けよ
十分に懲らしめを味わえ。
主は、決して
あなたをいつまでも捨て置かれはしない。
主の慈しみは深く
懲らしめても、また憐れんでくださる。
人の子らを苦しめ悩ますことがあっても
それが御心なのではない。(哀歌3章25-33節)
天国は彼らのものである。
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
柔和な人たちは、さいわいである、
彼らは地を受けつぐであろう。
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
彼らは飽き足りるようになるであろう。
あわれみ深い人たちは、さいわいである、
彼らはあわれみを受けるであろう。
心の清い人たちは、さいわいである、
彼らは神を見るであろう。
平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
彼らは神の子と呼ばれるであろう。
義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。
喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。(マタイ5章3-13)