この御言葉を「尼崎キリスト教会」で紹介したことがあります。
「尼崎キリスト教会」は、私が26歳のときに洗礼を授けてもらった教会です。ふらりと足を踏み入れたこの教会で、私はここにいる優しい人々から愛を受け、神様のことを教えてもらう中、クリスチャンになることを決めました。ここにもたくさんのジョイスのお友達がいて、ジョイスのためにたくさん祈ってくださいました。
岡山へ引っ越しを機にこの教会を後にしましたが、帰省の際には必ず大好きな人々のいるこの教会に行きます。
今年に入ってすぐ、尼崎キリスト教会のくわだ牧師よりジョイスの話をして欲しいと依頼を受けました。ジョイスは、神様からのギフトなので、もちろんです!と快く引き受けたものの、原稿をなかなか完成させることができませんでした。
一人になると流れてくる涙。沈みきった心。
依頼を受けて一カ月たっても原稿を完成できないし、こんな状態の私に何が言えるのだろうと夫に相談しました。
「ありのままでいいんだよ。無理して笑わないでいいし、元気なふりもしなくていい。ジョイスをたくさん愛したぶん、今は喪失感も大きく辛いっていいなよ」と言った。
えー、そんなことを言って、みんなの励みになるの?と思いながら、原稿を完成させ、2月14日当日は、ジョイスの命を通して神様に頂いた多くの恵みと喜び、そして夫のアドバイス通り、今の心境を正直に語った。
あまり励ましになる話ではなかったかもしれないが、それが偽りのない神様と私との関係だった。
その中で紹介したのが上にある御言葉でした。
今年に入ってから、神様が私にくり返し、くり返し、語られていた御言葉で、今もこの御言葉が私の心の支えとなっています。
今月で、ジョイスが逝って9カ月経つ。
正直、今はこの御言葉通り、艱難(かんなん)の中にいるように思えます。
今は、心が痛みます…
想像していた以上の様々な感情に押し潰されそうなときがあります。
愛する娘を亡くした母親の痛み・・・
その痛みは、何度も何度も私の心を突き刺しては、喪失感を大きく深くし、悲しみと涙で満たそうとしてきます。
しかし、この渦中で、不思議と私の心は悟っていることがあります。
神様は、わざとこの痛みを与え、この艱難の道を私に歩かせていること。
そして、この事が、いつか、誰かの益になるときが来ることを知っています。
一方で、この数カ月間の私の神様への悪態ぶりはひどいものでした。すねて、ふてくされ、背を向けるとも多々ありました。
夫は、「死の受容」5段階プロセスの「怒り」であろうから大丈夫だ。僕も通ったからと、怒りぎみの私もそのまま受け入れ続けてくれていました。
この二カ月間、毎週日曜日の朝になるとぼやきます。
「今日は、教会行きたくないな・・・」
「知ってる~。だからこそ、行こうね~」
そう言って、夫は私の手をひいて毎週家を出てくれていました。
私は、反抗期の子どものように、両耳をふさいで神様の声を聞かないようにしたり、なぜこんなに辛いんだ、なぜ私の心を早く回復させないのかと神様に文句を言ってみたりしていました。
でも、最後はやはり涙のうちに神様に言います。
「それでも、私は神様を選んだ。だから、あなたについていく」と。
長い沈黙の期間、なんとか神様とともにいようと踏ん張っていました。
どんなにもがき、なげき、苦しんでも、解決はここにしかないのを知っているから。
耐え忍とき、私の周りに散りばめられた神の愛に目を向けてなぐさめを受けます。
今日、改めてこの聖書個所を読んでいて気づきました。
私に与えられている神様からのなぐさめの一つ、それは、いつも変わらぬ愛で支え、共に歩んでくれる夫だなと。
明日は、ごねることなく教会に行こう…
日々の生活にジョイスのかけらを見つけながら、言葉にならない思いを神様に祈ります。
痛みに私の心が耐え忍ぶことができますように。
深く落ちすぎて、暗闇に心がむしばまれないように。
夫をありがとう。夫の心を傷つけないように私の口を守ってください。
あと、今日もジョイスによろしく伝えて欲しいと。